紡がれしクリスタルの導き
第5話「絶対回避」
ゴブリンの斧が、振り下ろされた。
重い。
タルティーは咄嗟にナイフを両手で構え、その一撃を受け止めた。金属と金属がぶつかり合う甲高い音が、砂丘に響く。
——じぃん、と。手のひらから腕へ、腕から肩へ、痺れが駆け上がっていく。
無理だ。
タルティーは、その一撃だけで理解した。このゴブリンとは、力が違いすぎる。今まで戦ってきたどのモンスターよりも、圧倒的に強い。間違いなく、勝てない。
ゴブリンが、斧を引いた。次の一撃の準備だ。その獣のような目が、タルティーを見下ろしている。小さなタルタルの体など、一振りで叩き潰せると言わんばかりの余裕が、その目に浮かんでいた。
「メルフィー、逃げて!」
タルティーは振り返らずに叫んだ。
返事がない。
「メルフィー!?」
一瞬だけ振り返った。
メルフィーは、数歩後ろに立ったまま、動いていなかった。
目を見開いて、口を半開きにして、まるで時間が止まったかのように——固まっている。杖を握る指先が、細かく震えていた。
恐怖だ。
コンシュタット高地のゴブリンに追われたときとは、比べものにならない。あのときは「逃げれば大丈夫」だった。だが今は、目の前に敵がいて、逃げ道を塞がれている。そして、その敵が仲間に斧を振り下ろすのを見てしまった。メルフィーの体は、恐怖に縫い止められていた。
「メルフィー!!!」
タルティーが、叫ぶように名前を呼んだ。
低い声だった。いつもの丁寧語ではない、あの声。
——その声が、メルフィーの耳に届いた。
「——っ!」
はっ、と。まるで水の中から引き上げられたように、メルフィーの目に光が戻った。
「タル……ティー……?」
「聞いて。落ち着いて聞いて」
タルティーは、ゴブリンと向き合ったまま、背中越しにメルフィーに語りかけた。ゴブリンが次の一撃を繰り出すまで、あと数秒。その数秒の間に、伝えなければならない。
「切り札を使う。ボクが囮になって、ゴブリンの気を引く。町の前にいるやつらも、全部ボクに引きつける」
「え——」
「その間に、メルフィーはセルビナの町に駆け込んで」
「でも——タルティーは!?」
「大丈夫。絶対に、大丈夫だから」
振り返らなかった。振り返ったら、メルフィーの顔を見てしまう。見てしまったら、覚悟が揺らぐかもしれない。だから、前だけを見た。
「カウントするよ。合わせて」
「タルティー……」
「3」
メルフィーが何か言おうとした。だが、タルティーの声は止まらない。
「2」
ナイフを握り直す。体の奥底から、何かが湧き上がってくるのを感じる。シーフとして積み重ねてきたもの。そのすべてを、今この瞬間に——。
「1——行けっ!!」
タルティーの体が、光を纏った。
絶対回避。
シーフが持つ、究極の切り札。三十秒間だけ——たった三十秒間だけ、あらゆる物理攻撃を回避する力。限界を超えた集中力で、体が勝手に動く。見えるはずのない攻撃が見え、避けられるはずのない一撃を避ける。
代償は、終わった後に訪れる激しい疲労。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
タルティーは、目の前のゴブリンに向かって飛び込んだ。
ゴブリンの斧が振り下ろされる。体が、勝手に横に流れた。斧が空を切る。その隙にナイフで一閃——深い傷を与えるためではない。注意を引くためだ。
「こっちだ!!」
ゴブリンが激昂した。タルティーを追って走り出す。
さらにタルティーは、セルビナの門の前にたむろしていたゴブリンの群れの横を、すれすれで駆け抜ける。わざと近くを走り、わざと音を立て、わざと気づかせる。
「こっちだよ!! ボクはここだ!!」
ゴブリンたちが、一斉にタルティーを見た。
一匹が追いかけてきた。二匹目が続いた。三匹目も。四匹目も。
気づけば、門の前にいたゴブリンの群れが、すべてタルティーを追いかけていた。小さなタルタルの少年を先頭にした、新たなゴブトレイン。
門の前が——空いた。
メルフィーは、走っていた。
タルティーの「行けっ!」という声が耳に残っている。体は恐怖で動かなかったのに、あの声を聞いた瞬間、足が動いた。考えるよりも先に、走り出していた。
タルティーが言ったのだ。大丈夫だと。絶対に大丈夫だと。
——信じる。信じるしかない。
涙で霞む視界の中、セルビナの門が近づいてくる。門の前にいたゴブリンたちは、タルティーを追って反対方向に走っていった。道は、空いている。
メルフィーは、門をくぐった。
足が石畳を踏んだ瞬間、砂丘の空気が途切れた。町の中だ。ゴブリンは、ここには入ってこれない。
「はっ……はぁっ……はぁっ……」
膝に手をつき、肩で息をする。心臓がうるさいほどに鳴っている。
「お、おい……大丈夫か?」
声をかけてきたのは、門の近くの壁にもたれて座り込んでいた男だった。見覚えがある。さっき、ゴブリンの群れに追われて走り抜けていった、あのエルヴァーンの冒険者だ。
「さっきは本当にすまなかった……俺が連れてきたゴブリンのせいで、あんたたちまで巻き込んで——」
エルヴァーンは申し訳なさそうに頭を下げたが、途中で言葉を切った。メルフィーの背後を見て、その顔が青ざめていく。
「……おい、もうひとりいなかったか? 小さいの……タルタルの」
「——」
メルフィーは、答えられなかった。
振り返って、門の外を見た。
砂丘が広がっている。白い砂の上に、ゴブリンたちの姿はもう見えない。タルティーが引きつけて、遠くまで走っていったのだ。
——絶対回避。
メルフィーは、タルティーからその切り札のことを聞いていた。
冒険を始めて間もない頃、シーフのアビリティについて調べていたタルティーが、興奮した様子で教えてくれたのだ。
『メルフィー、シーフにはすごい技があるんですよ。三十秒間、物理攻撃を全部回避できるんです』
『えっ、なにそれ、無敵じゃん!』
『ただ、終わった後がつらいみたいで……。あと、三十秒しか持たないから、使いどころが大事なんです』
そしてタルティーは、真剣な目で、こう言った。
『もしいつか、どうしようもない状況になったら、ボクがこれを使うから。メルフィーは絶対に躊躇しないで、真っ先に逃げてね』
あのとき、メルフィーは軽い気持ちで「うん、わかった」と答えた。
まさか、本当にその日が来るとは思っていなかった。
三十秒が、過ぎた。
メルフィーは、門の前に立って砂丘を見つめていた。
タルティーは、来ない。
一分が過ぎた。
来ない。
二分が過ぎた。
来ない。
「…………まさか」
最悪の想像が、頭をよぎった。
三十秒で絶対回避は切れる。その後は、激しい疲労に見舞われるとタルティー自身が言っていた。疲労した体で、あの数のゴブリンから逃げ切れるのか。逃げ切れなかったら——。
メルフィーの顔から、血の気が引いていく。
「タルティー……」
呟いた声が、震えていた。
「タルティー……!」
走り出そうとした。門の外に。砂丘に。タルティーを探しに。
「おい、待て! 外に出たら危険だ!」
エルヴァーンの冒険者が、メルフィーの腕をつかんだ。
「離して! タルティーが——タルティーがまだ——!」
「わかってる! だが、あんたまで倒されたら——」
そのとき。
砂丘の向こうから——何かが飛んできた。
いや、飛んできたのではない。吹き飛ばされてきたのだ。
小さな体が、砂を巻き上げながら宙を舞い、門の内側に転がり込んだ。ごろごろと石畳の上を転がって、壁にぶつかって、ようやく止まった。
「——タルティー!!!」
メルフィーは、叫んで駆け寄った。
タルティーは、仰向けに倒れていた。
服はあちこち裂けている。腕にも脚にも、無数の切り傷と打撲の痕。頬には大きな痣ができていて、帽子は吹き飛んでなくなっていた。目は閉じたまま、浅く、不規則な呼吸を繰り返している。
虫の息だった。
「タルティー! タルティー!!」
メルフィーがタルティーの体を抱き起こした。ぐったりとした小さな体は、驚くほど重い。
反応がない。
「お願い……起きて……!」
声が震える。涙が止まらない。
だが——泣いている場合ではない。
メルフィーは、タルティーを抱いたまま、ぐっと唇を噛んだ。涙を拭う暇もなく、杖を握った。
「すぐ回復してあげるからね……絶対に、助けるからね……!」
メルフィーは、体の奥底にある魔力のすべてをかき集めた。ケアルではない。ケアルでは間に合わない。今必要なのは——白魔道士が持つ、究極の切り札。
女神の祝福。
白魔道士が持つ、最強にして最後の手段。一瞬にして、仲間の体力を完全に回復させる力。その代償もまた大きいが、今はそんなことを考える余裕はなかった。
メルフィーは、タルティーを抱きしめるようにして、両手を重ねた。
杖が、光を放った。
暖かい——いや、熱いほどの光が、メルフィーの体からあふれ出した。まるで太陽を抱いているかのような、圧倒的な癒しの力。それがタルティーの体を包み込み、傷を塞ぎ、痣を消し、折れかけた骨を繋ぎ直していく。
光が、セルビナの門前を白く染め上げた。
光が収まったとき、タルティーの顔に、赤みが戻っていた。
呼吸が安定している。傷が消えている。
メルフィーは魔力をほとんど使い果たして、ふらつきながらもタルティーの体を支え続けていた。
やがて、タルティーの目が、ゆっくりと開いた。
「……メル……フィー……?」
かすれた声が、メルフィーの名前を呼んだ。
「タルティー……!」
タルティーは、ゆっくりと体を起こした。全身の傷は消えている。体力は戻っている。だが、絶対回避の後遺症なのか、まだ体の芯が重かった。
それでも、タルティーは立ち上がった。
そして、メルフィーに向かって、小さく微笑んだ。
「……ありがとう、メルフィー。助かりましたよ」
いつもの丁寧語だった。穏やかな声。柔らかい笑顔。
それを聞いた瞬間——メルフィーの中で、張り詰めていたものが全部、切れた。
「ばかっ……!」
メルフィーが、タルティーに飛びついた。
小さな体を、力いっぱい抱きしめる。タルティーが「わっ」と声を上げたが、メルフィーは構わなかった。
「ばかばかばかっ……! 心配したんだから……! 全然来ないから……死んじゃったかと思ったんだから……!」
涙が、止まらなかった。
「もう……もうこんな無理しないでよ……お願いだから……」
タルティーは、メルフィーの腕の中で、少し困ったように、でも嬉しそうに笑った。
「……ごめんなさい。心配かけましたね」
「心配かけましたね、じゃないよっ……!」
「……でも、メルフィーが無事で、よかった」
その一言に、メルフィーはさらに泣いた。
——少し離れた場所で、その様子を見ていたエルヴァーンの冒険者は、ぽりぽりと頭を掻いた。
あのゴブトレインを引き起こしたのは、自分だ。その結果、この二人の新米冒険者を危険に巻き込んでしまった。
タルタルの少年が命がけで囮になり、白魔道士の少女が泣きながら回復する姿を見て——居心地が悪いなんてものではなかった。
謝るべきだ、とは思う。思うのだが。
今、あの空間に割って入るのは、どう考えても無粋だ。
「……気づかれないうちに……」
エルヴァーンの冒険者は、そそくさと、できる限り静かに、その場を離れた。
彼がこの後、罪悪感から酒場で三杯のエールをやけ飲みしたことは、タルティーもメルフィーも知らない。