紡がれしクリスタルの導き
第10話「遥かなるジュノ」
準備に丸一日を費やした。
長旅になる。何が起こるかわからない。二人は競売所やお店を駆け回り、必要なものを揃えていった。
回復薬。やまびこ薬。毒消し。食料。予備の装備。地図。包帯。前回のセルビナ行きの経験から、この手の備えは多すぎるくらいがちょうどいいと学んでいた。
「タルティー、かばんパンパンなんだけど……」
「ボクもです。でも、減らすわけにはいきません」
「うー……もうちょっと大きいかばんがほしい……」
「本当ですね」
準備を終えた二人は、明日の早朝出発を確認して、それぞれのモグハウスに戻った。
翌朝。
「おはよ、タルティー。……眠い」
「おはようございます。早いですけど、出発は早い方がいいですから」
バストゥークの街が、まだ眠りの中にある時間。鍛冶の炉の火だけがぼんやりと揺れる薄暗い大通りを、二つの影が歩いていた。
「うん……わかってる……ふぁ……」
メルフィーが大きなあくびをした。タルティーも、実を言えば眠い。だが、長い道のりを考えれば、少しでも早く出た方がいい。
バストゥークの正門を抜け、見慣れたグスタベルグの荒野に出る。赤茶けた岩と砂の風景。冒険者になったばかりの頃は果てしなく広く感じたこの場所も、今では通い慣れた道だ。
グスタベルグを抜け、コンシュタット高地へ。緑の丘が連なる高原を、二人は足早に横切っていく。ここも、もう何度も通った場所だ。大羊の姿が遠くに見えたが、今の二人にとってはさほど脅威ではない。
「ここまでは、いつもの道だね」
「はい。問題は、この先です」
コンシュタット高地の北端。今まで足を踏み入れたことのない方角へ、二人は歩を進めた。
空気が、変わった。
高地の爽やかな風が、いつの間にか湿った空気に置き換わっている。足元の草が、水気を含んでぬかるみ始めた。視界の先には、低い木々と葦の茂みが広がり、あちこちに水たまりや小さな池が点在している。
「ここが……パシュハウ沼?」
「そうみたいですね。地図で見ると、ジュノに行くにはこの沼地を抜ける必要があります」
パシュハウ沼。その名の通り、広大な沼地が広がるエリアだった。
足場が悪い。一歩踏み出すたびに、靴がぬかるみに沈む。うっかり道を外れれば、膝まで泥に浸かりそうだ。
「うわ、ぐちゃぐちゃ……靴が汚れる……」
「なるべく道になっているところを歩きましょう。草の上も、比較的しっかりしてます」
二人は、泥濘を避けるように、踏み固められた道や草の生えた場所を選んで歩いた。タルティーは特に大変だった。タルタルの短い脚では、ヒュームのメルフィーよりもはるかにぬかるみの影響を受ける。何度か足を取られそうになりながら、必死についていく。
「大丈夫、タルティー?」
「大丈夫ですよ……多分……」
「ちっちゃいと沼は大変だよねぇ」
「今はそういうこと言わないでください……集中が切れます……」
沼地の不快さは、足場だけではなかった。
あちこちに、モンスターの姿が見える。
「タルティー、あれ……クゥダフ?」
「はい。グスタベルグにいたやつよりも、ずっと大きいですね」
沼地を闊歩するクゥダフは、バストゥーク周辺で見かけたものとは明らかに格が違った。分厚い甲羅はより重厚で、手にしている武器も大振りだ。
そして、クゥダフだけではない。
「あれ、何……?」
メルフィーが指さした先に、見たことのないモンスターがいた。巨大な灰色の体。ずんぐりとした四肢。そして、頭の上には——草が生えている。
「……頭から草が生えてますね」
「生えてるね」
「あれは……一体、何なんでしょう」
「わかんないけど、とにかくデカいし、近づかない方がよさそう」
巨大な灰色のモンスターは、のっそりと沼地を歩き回っていた。その存在感は、コンシュタット高地で初めて見たときの大羊以上だ。あれに見つかったら——考えたくもない。
二人は息を殺して、モンスターたちの間を縫うように進んでいった。
しばらく歩き続けていると、空が暗くなり始めた。
「曇ってきた……?」
タルティーが空を見上げた瞬間、ぽつり、と頬に水滴が落ちた。
次の瞬間、雨が降り始めた。
最初はぱらぱらと、すぐにざあざあと。沼地特有の、重く湿った雨だ。視界がぼやけ、足元のぬかるみがさらにひどくなる。
「うわぁっ、降ってきた!」
「木の下に……いえ、ダメです。立ち止まっている間にモンスターに見つかるかもしれません。このまま進みましょう」
「えぇー……」
メルフィーが情けない声を上げたが、タルティーの判断は正しかった。沼地のモンスターは、雨の中でも活動している。むしろ、雨で視界が悪くなった分、向こうから近づかれても気付かないかもしれない。立ち止まるよりも、進み続けた方が安全だ。
二人は、雨に打たれながら歩いた。
服はあっという間にびしょ濡れになった。髪の先から雨粒が滴る。タルティーの帽子は水を吸って重くなり、ぺたりと頭にへばりついている。
「タルティー……帽子、大丈夫?」
「大丈夫ではないですけど……歩けないよりはマシです」
「あはは……ふたりとも、ひどい格好だね」
「ですね。……でも、止まるわけにはいきません」
雨脚は強まるばかりだった。ぬかるみはさらに深くなり、一歩一歩が重い。それでも、二人は歩き続けた。モンスターの影を避け、道を探し、互いの姿を見失わないように、肩を並べて。
雨の中を、どれくらい歩いただろう。
ふと、足元の感触が変わった。
泥のぬかるみが、いつの間にか固い土に変わっている。空気の湿り気も薄れてきた。そして——風が変わった。
沼地の重い空気ではない。爽やかで、どこか甘い匂いを含んだ風。
「タルティー……見て」
メルフィーが立ち止まった。
目の前に広がっていたのは、沼地とはまるで別の景色だった。
なだらかに広がる緑の大地。整然と並んだ木々。よく見ると、それは果樹だった。枝にはたわわに実が生っている。畑のように区画された土地が、どこまでも続いている。
「ここは……農地?」
「ロランベリー耕地、でしょうか。地図に載ってます」
雨はいつの間にか止んでいた。雲の切れ間から差し込む日差しが、濡れた大地を照らしている。びしょ濡れの二人の服からは、ゆるやかに湯気が立ち上っていた。
「いい匂い……果物の匂いだね」
「ですね。沼の後だと、余計にいい匂いに感じます」
メルフィーが、大きく深呼吸した。沼地の泥臭さから解放されて、ようやく人心地がついた。
だが、ロランベリー耕地もまた、安全な場所ではなかった。
「……タルティー、あれ」
「見えてます。静かに」
耕地の向こう側を、クゥダフの一団が歩いていた。パシュハウ沼にいたものよりも、さらに大きい。その甲羅は金属のようにも見える。手にしている武器は、もはや片手では持てないほどの大剣だ。
「でかい……沼にいたやつよりも、もうひと回りでかい……」
「あっちにはゴブリンもいますね。あのサイズは……砂丘にいたものと同等か、それ以上です」
レベル25の二人にとって、このエリアのモンスターは明らかに格上だった。見つかったら、無事ではすまないだろう。
「山沿いを行きましょう。見通しの悪いところの方が、モンスターにも見つかりにくいはずです」
「うん。タルティーの後についていく」
二人は、耕地の端にある山の斜面に沿って進んだ。木々の陰に隠れ、岩の影に身を潜め、モンスターの動きを観察しながら、少しずつ前へ。シーフとしてのタルティーの勘が、ここで真価を発揮していた。気配を殺し、相手の視線を読み、安全な道を選ぶ。
やがて——。
「メルフィー、見えますか」
「見え……あっ」
山沿いの道を進んだ先。視界が開けた瞬間、遥か前方に——巨大な何かが見えた。
高い壁。積み上げられた石造りの建造物。いくつもの塔のようなものがそびえ立っている。それは、バストゥークとは比べものにならないほどの規模だった。
「あれが……」
「ジュノ……だよね、きっと」
まだ遠い。だが、その威容は、離れていても十分に伝わってきた。大陸の中心にある大きな街——エルヴァーンの戦士が語った言葉は、誇張ではなかった。
「すごい……あんな大きな街があるんだ……」
「はい……バストゥークとは、全然違う……」
二人は、しばらくその光景に見入っていた。
ジュノが見えた。あと少しだ。
その安堵が——一瞬の油断を生んだ。
パキッ。
小さな音が、耕地の静寂に響いた。
メルフィーが、足元の木の枝を踏んだのだ。
「あ——」
メルフィーの顔が凍りついた。
すぐ近くの木立の陰に、クゥダフがいた。こちらに背を向けていたそのクゥダフが、ゆっくりと振り返った。
甲羅に覆われた巨体。鈍く光る目が、二人を捉えた。
「ご、ごめんなさい……」
メルフィーが蒼白になって呟いた。
「謝るのは後!」
タルティーの声が、鋭く響いた。丁寧語ではない。
「やるよ!」
タルティーは、咄嗟にクゥダフに向かって挑発を放った。
クゥダフの注意が、メルフィーからタルティーに向く。巨大な甲羅の獣人が、低い唸り声を上げて、タルティーに向かってきた。
「こっちだ! ついてこい!」
タルティーは走った。他のモンスターに見つかったら終わりだ。ここで戦うわけにはいかない。
山の合間に、小さな窪地があるのが見えた。周囲を岩壁に囲まれた、目立たない場所。あそこなら、他のモンスターの目につきにくい。
タルティーはクゥダフを誘導するように、窪地へと走り込んだ。クゥダフが追ってくる。重い足音が背後に迫る。
「メルフィー、こっちに!」
「う、うん!」
メルフィーも慌てて窪地に飛び込んだ。杖を構え、震える声で詠唱を始める。
「プロテス!」
タルティーの体に、薄い光の膜が張った。物理防御を高める強化魔法だ。
「シェル!」
続けて、魔法防御を高める光がタルティーを包む。
「ありがとう! 行く!」
タルティーはナイフを構え、クゥダフに向かった。
斬りつける。ナイフの刃が、クゥダフの甲羅の隙間を狙う。手応えはある——だが、相手の反撃が重い。
クゥダフが大剣を振り下ろした。タルティーはナイフで受け止めた。
——じぃん。
手のひらから腕へ、腕から肩へ。あの日、砂丘でゴブリンの斧を受け止めたときと同じ痺れが走った。いや、それ以上だ。ナイフの柄を握る指が、一瞬外れそうになった。
「っ……! 重い……!」
それでも、受け止めた。プロテスの加護がなければ、今の一撃で吹き飛ばされていたかもしれない。
次の一撃が来る。横に跳んで躱す。体勢を立て直し、ナイフを振るう。クゥダフの脚を狙った一撃が、甲羅の縁に当たって弾かれた。
「くっ……」
硬い。甲羅の防御が厚い。隙間を正確に狙わなければ、ダメージが通らない。
「ケアル!」
メルフィーの回復魔法が、タルティーの傷を癒す。
「タルティー、大丈夫!?」
「大丈夫……! まだやれる!」
クゥダフが再び大剣を振り上げた。今度は横薙ぎだ。タルティーは身を屈めて、その一撃をぎりぎりで避けた。大剣が風を切って頭上を通過する。
——そこだ。
振り抜いた後の、一瞬の隙。クゥダフの脇腹、甲羅と甲羅の継ぎ目。タルティーは踏み込んで、ナイフをその隙間に突き込んだ。
「はぁっ!!」
深く刺さった。クゥダフが苦悶の声を上げる。
だが、まだ倒れない。クゥダフは怒りに任せて体をひねり、タルティーを振り払おうとした。ナイフを引き抜き、後退する。
「メルフィー、もう少し!」
「うん! ケアル!」
回復。立て直す。また斬る。また受ける。痺れる腕で、もう一度振るう。
長い戦いだった。数分のはずが、永遠のように感じられた。
そして——最後の一撃。
クゥダフの攻撃を横に躱し、がら空きになった喉元に、ナイフを叩き込んだ。
クゥダフが、重い音を立てて崩れ落ちた。
窪地に、二人の荒い息だけが響いていた。
ギリギリだった。本当に、ギリギリの勝利だった。
タルティーは、地面に手をついて肩で息をしていた。ナイフを握っていた手が、まだ痺れている。プロテスとシェルがなかったら、途中で押し切られていたかもしれない。
「タルティー……」
メルフィーが、タルティーの前に立っていた。
泣きそうな顔をしていた。
「ごめん……私のせいで……枝を踏んじゃって……」
「…………」
「ごめん、タルティー……本当に、ごめん……」
メルフィーの声が震えている。目の縁に涙が溜まっていた。自分の不注意で、タルティーを危険に晒してしまった。その後悔が、全身から滲み出ている。
タルティーは、ゆっくりと立ち上がった。
そして——いつもの、柔らかい声で言った。
「いいですよ。大丈夫ですから」
「でも……」
「誰だって、うっかりはありますよ。それに、ちゃんと勝てたじゃないですか。メルフィーのプロテスとシェルがなかったら、あの一撃目で吹き飛ばされてましたよ」
「…………」
「だから、メルフィーのおかげで勝てたんです。ね?」
タルティーが、にっこりと笑った。砂埃と汗にまみれた顔だったが、その笑顔は、いつも通り穏やかだった。
メルフィーは、ぐしっと目元を拭った。
「……ありがと。もう、気をつけるから」
「はい。——さ、先を急ぎましょう。ジュノは、もうすぐそこです」
窪地を出た二人は、これまで以上に慎重に進んだ。
メルフィーは、一歩一歩、足元を確認しながら歩いている。先ほどの失敗を、しっかりと胸に刻んでいるのだろう。
山沿いの道を進み、モンスターの目を盗み、少しずつ、少しずつ——。
やがて。
石畳の道が見えた。整備された道。人の手が入った道。その先に、巨大な門が口を開けている。
「着いた……」
「着いたよ……タルティー……」
ジュノ大公国。
二人は、その門の前に立った。
見上げるほどに高い城壁。その向こうから聞こえてくる、バストゥークとは比べものにならない喧噪。行き交う人々の数も、種族の多様さも、街の規模も——何もかもが、桁違いだった。
「……すごい」
メルフィーが、呆然と呟いた。
「はい……。これが、ジュノ……」
タルティーも、小さな目を精一杯に見開いて、目の前の光景を見つめていた。
バストゥークから始まった旅。グスタベルグの荒野を越え、コンシュタット高地を越え、バルクルム砂丘を越え、パシュハウ沼を越え、ロランベリー耕地を越えて——ようやく、ここに辿り着いた。
二人は、顔を見合わせた。
服は汚れ、顔は埃だらけ、至るところ傷だらけで。お世辞にも格好いいとは言えない姿だった。
だけど、二人の顔には——同じ笑顔が浮かんでいた。
「行こう、タルティー」
「はい。行きましょう、メルフィー」
二人は、ジュノの門をくぐった。
