紡がれしクリスタルの導き
第20話「満天の星の下で」
モグハウスには、戻れなかった。
タルティーは、走って、走って、気づけばジュノの最上層——ル・ルデの庭にいた。各国の領事館が並ぶ、静かな一角。その陰に座り込んで、空を見上げていた。
昼の空は青く、雲が流れていた。
何も考えたくなかった。でも、考えないわけにはいかなかった。
ボクがタルタルだから。
メルフィーに迷惑をかけている。
今まではレベル上げの中でのことだと思っていた。体が小さいから打たれ弱い。攻撃力が低い。回復の負担をかける。それは、ジョブや装備を変えることで、少しずつ補えると信じていた。
でも。
今日のようなことが起きる。
ボクがタルタルだから、あの男に目をつけられた。ボクが弱いから、メルフィーが庇おうとする。そしてメルフィーが傷つく。
これは、ジョブを変えても、装備を変えても、レベルを上げても——変えられないことだ。
ボクがタルタルであること。それ自体が、メルフィーを危険に晒している。
「…………」
膝を抱えて、小さくなった。
メルフィーに、酷い言い方をしてしまった。
——もうボクに構わないでください。
あの言葉を言った瞬間の、メルフィーの顔。驚いて、傷ついて、信じられないという顔。あの顔が、目の奥に焼きついて離れない。
膝のケガは、大丈夫だろうか。ケアルは自分でかけられるから、傷は治せるはずだ。でも——心の傷は、どうだろう。
ボクが、メルフィーの心を傷つけた。
あの男に蹴られたことよりも、そのことの方がずっと痛かった。
昼が過ぎ、夕方になり、日が沈んだ。
タルティーは、動かなかった。
ル・ルデの庭を行き交う人の数が減っていく。夕方にはまだ何人か見かけた冒険者や役人の姿も、夜が深まるにつれていなくなった。
やがて、庭は静寂に包まれた。
空を見上げた。
星が出ていた。
ジュノの夜空は、バストゥークとは違って見えた。高い位置にある庭園からは、遮るものがない空が見渡せる。星が——無数の星が、暗い空に散りばめられていた。
綺麗だった。
綺麗なのに、何も感じなかった。
ただ、ぼんやりと眺めていた。何時間も。何も考えられないまま。何も感じないまま。
夜が、深くなっていった。
人の往来は、完全になくなった。ル・ルデの庭に、タルティーひとりだけが残されている。
星空を眺めていた。
——ふいに、隣に誰かが座った。
タルティーは、顔を動かさなかった。見なくても、わかった。
この気配を、間違えるはずがない。
何十回、何百回と隣にあった気配。レベル上げで、旅の途中で、石段で、港で。いつだって隣にあった、この気配。
「星、綺麗だね」
その人物が、静かに言った。
いつもの明るい声ではなかった。静かで、穏やかで——でも、芯のある声だった。
タルティーは、答えなかった。答えられなかった。何を言えばいいのかわからなかった。ごめん、と言えばいいのか。でも、ごめんで済むことじゃない。かといって、他に言葉が見つからない。
しばらく、沈黙が続いた。
星の光だけが、二人を照らしていた。
「ねぇ、タルティー」
両肩を、掴まれた。
小さくはない力で、メルフィーの手がタルティーの両肩を掴んで——無理やり、自分の方を向かせた。
タルティーの視界に、メルフィーの顔が映った。
星明りに照らされた顔。いつもの笑顔はない。泣いた跡がある。目は赤い。でも——その目は、タルティーをまっすぐに見ていた。
逸らさなかった。逸らす気もないという、強い目だった。
「あなたはクソじゃない」
メルフィーが言った。
「あなたはお子ちゃまじゃない」
一言ずつ。はっきりと。タルティーの目を見据えたまま。
「私は同情なんかしていない」
声は震えていなかった。静かだった。でも、その静けさの奥には、ぐらぐらと揺れる何かがあった。
「私があなたを守っているんじゃない。あなたが、私を守ってくれてるの」
「…………」
「砂丘でゴブリンに囲まれたとき。クフィムであの男に殴られたとき。今日だって——私を突き飛ばしたあいつに、あなたは立ち向かったでしょう。勝てないって、わかってたのに」
「…………」
「私を守ろうとして、いつもあなたが傷ついてるの。迷惑をかけているのは、あなたじゃない。私の方が、あなたに迷惑をかけてるの」
メルフィーの目が、潤んできた。
でも、視線は逸らさなかった。
「私は自分の意志で、あなたと一緒にいるの」
声が、少しだけ震えた。
「あなたがタルタルだから一緒にいるんじゃない。あなたが弱いから同情してるんじゃない。私が——私が一緒にいたいから、いるの」
「…………」
「それでもあなたは」
メルフィーの声が、揺れた。
「私を、拒否するの?」
メルフィーの目から、涙がこぼれた。
ぽろり、と。星の光を受けて、一筋の涙が頬を伝っていく。
「ねぇ、答えて」
声が、かすれていた。
「私がいると、邪魔?」
——その言葉が、タルティーの胸を貫いた。
邪魔。
そんなわけがない。そんなわけが、あるはずがない。メルフィーがいなかったら、ボクは——。
バストゥークの街角で、優待券の渡し先がわからなくて困っていた女の子。白魔道士なのにケアルが使えなくて、慌ててスクロールを読んだ女の子。話を最後まで聞かない、怖いもの知らずの、まっすぐな——。
タルティーは、必死に首を振った。
横に。何度も。何度も。
「そんなこと……」
声が、出なかった。喉が詰まって、言葉がうまく形にならない。
「ある訳ない……」
声にならない声だった。かすれて、震えて、途切れそうな声。でも、精一杯だった。今の自分に出せる、精一杯の声だった。
「だったら——」
メルフィーの声が、変わった。
今まで聞いたことのない声だった。
泣いているのに。涙が頬を伝っているのに。その声は——強かった。
「もう、あんなこと言わないで!」
タルティーの体が、びくりと震えた。
「約束して!」
メルフィーが、タルティーの両肩をしっかり掴んだ。小さな体を、正面から見据えた。涙を拭いもせず、タルティーの目を、まっすぐに——まっすぐに見つめたまま。
「放っておいてなんて、二度と言わないで!」
今までに見せたことのない、強い口調だった。
いつもの「行こうよ」でも、「大丈夫だって」でも、「がんばろっ」でもない。メルフィーの中にある、一番深い場所から絞り出された声だった。
タルティーは——唇を、噛んだ。
ぎゅっと。強く。あの日と同じように。港の片隅で噛んだときと、同じように。
でも——あの日とは、違った。
あの日は、悔しさで噛んだ。
今日は——自分の愚かさを、噛みしめるために。
「ごめん……」
声が出た。今度は、かすれていたけれど——ちゃんと、声になった。
「もう絶対言わない……」
涙が、こぼれた。抑えていたものが、堰を切ったように。
「言わないから……ごめん……」
必死に振り絞った声だった。途切れ途切れの、情けない声。でも、その一言一言に——嘘はなかった。
「…………」
メルフィーの手が、タルティーの肩から離れた。
そして——ゆっくりと、タルティーの小さな体を抱きしめた。
何も言わなかった。
二人とも、何も言わなかった。
言葉は、もう必要なかった。
満天の星空が、二人を見下ろしていた。
ル・ルデの庭の、誰もいない夜。領事館の壁に寄りかかって、二人は並んで座っていた。
泣き疲れたタルティーの目は、まだ赤い。メルフィーの目も、赤い。でも——二人の間にあったわだかまりは、もうどこにもなかった。
「……タルティー」
「……はい」
「約束だよ」
「はい。約束です」
「破ったら怒るからね」
「……破りません」
「本当に?」
「本当です」
「…………」
「…………」
「……よし」
メルフィーが、小さく笑った。泣いた後の、ちょっとぎこちない笑顔。でも——あのバストゥークの街角で見た笑顔と、同じ温かさがあった。
タルティーも、つられて笑った。こちらも、ぎこちない笑顔。でも、笑えた。
それだけで、十分だった。
星が、瞬いていた。
ジュノの夜空に、無数の光が散りばめられている。
二人は、並んで空を見上げていた。肩が触れるくらいの距離で。
風はなかった。夜の空気は少し冷たかったが、隣にいる温もりが、それを補って余りあった。
「……ねぇ、タルティー」
「はい」
「星、本当に綺麗だね」
「……はい。綺麗ですね」
さっきと同じ言葉。でも、今度は——ちゃんと、心で感じていた。
星が綺麗だと思えることが、隣にメルフィーがいることが——どれほど大切なことか。
満天の星空の下で、またひとつ。
二人だけの約束が、静かに交わされた。
